動物の権利を真面目に考える

動物の権利論関係の文献(日本語・英語・仏語)の読書メモ、紹介。

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の紹介①

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights, Critical Review of International Social and Political Philosophy, 16:5, 655-675
www.academia.edu


著者について

 この記事で紹介する論文の著者Alasdair Cochraneはイギリスの政治学者。主な研究分野は権利論、動物倫理、生命倫理などで、これまでに出版された著書は全て政治(哲)学的動物(の権利)論のようである。

An Introduction to Animals and Political Theory
Should Animals Have Political Rights?
Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals: Theory, Culture, Science, and Law)
Sentientist Politics: A Theory of Global Inter-Species Justice は、

 3つ目の著作については、id:DavidRice氏がその第1章を紹介している。
davitrice.hatenadiary.jp

 私自身はと言えば、いずれも未読だが、現時点で最新著の Sentientist Politics: A Theory of Global Inter-Species Justice は、ここでで紹介する論文とも関連していそうだし、いつか読もうとは思っている。(ただ高価なので買うのがためらわれる…)

 ちなみこの記事で紹介する論文の縮約版もあるらしく、そちらもid:DavidRice氏によって紹介されている(私は未読)。そのため、この記事を読む前に、下の紹介記事を読んでおくとよいかもしれない。

davitrice.hatenadiary.jp

論文の内容

 最初に、この論文の流れを記しておくと、

①「人権」を「有感動物の権利sentient rights」*1へと再概念化することの妥当性を(3つの反論に応えつつ)示す
②有感動物の権利と人権を区別する根拠となる特質が後者にはある、という反論に再反論を加える
③人権を有感動物の権利へと再概念化すると重大な問題が生じる、とする批判に応える

という流れになっており、論旨自体は明確である。その過程で、権利、ないし人権に関する、ファインバーグやラズらの諸説が取り上げられる。私はこの分野の文献を読んだことがほとんどないが、それらについても必要最低限の説明がなされており、さほどのストレスを感じることなく読み進めることができた(誤解・誤読している箇所があるかもしれないが)。

 以下では、①~③の流れに従いつつ、内容を紹介していく。(②③はそれぞれ別記事で紹介)

①人権を有感動物の権利へと再概念化することの妥当性を示す

 著者はまず、全ての有感動物sentient creaturesが基本的な権利を有しうる、あるいは有していることを一応の根拠をもつ主張prima facie caseとして提示する。その論証は以下のようにとてもシンプルだ。

  1. 権利の保有必要十分条件は利益である。ゆえに利益を持つ存在は権利を有する。
  2. (利益を持つ存在とはどのような存在かといえば、)有感動物のみが利益を持つ。
  3. (以上から、)全ての有感動物は権利を持っている(と言える)。

 権利とは何かという問題には、いくつか異なる議論があるが、1から見てとれるように、著者は権利の利益説、つまり権利とは権利の享有主体の利益を保護するものだとする立場に立つ。

 また、2の主張は、ピーター・シンガーや、ゲイリー・フランシオンら、動物解放論者、動物の権利論者に広く共有されている考えだろう。

 さて、仮に1と2に異論がないとするならば、3の主張を認めることになる。ところで、「人権」概念は、3の主張と両立しえない。なぜなら、「人権」の享有主体は、定義上ホモ・サピエンスに限定されているからだ。人権は民族、国籍、性別、宗教などを問わず、全ての人によって享有される点においては排除的ではないが、人以外の動物に対しては閉ざされている。しかし、権利保有必要十分条件が「利益を持つこと」ならば、(利益を持つ)人以外の動物に権利を認めないのは不当な排除となる。「人権」が人以外の動物に対する正当化しえない排除を本質的に含むものであるのならば、これを是正するために、「有感動物の権利」として再概念化される必要がある、というのが著者の主張である。

 以上の一見自明の主張の妥当性を示すべく、著者は3つの反論に応えていく。

反論1 自ら権利を主張するものだけが権利を持つ

 ひとつ目の反論は、上述の1(権利の保有必要十分条件は利益である。ゆえに利益を持つ存在は権利を有する。)に対するものである。つまり、利益と権利のリンクを否定し、権利を持つことが出来るのは、自身の権利の要求ないし放棄を主張することが出来る存在のみである、と反論する。

 この反論に対して著者はファインバーグの主張を援用しつつ再反論を試みる。権利とは本質的に主張であることを認めたとして、権利保有者が自身のために権利を主張しなければならない必然性をファインバーグは疑問視する。仮に権利保持者が自らの権利を主張することができないとしても、代理人がその権利を主張することは可能だからである。このように考えるならば、権利を自分で主張することができない者、たとえば、幼児や重度の知的障がい者もまた権利を有していることに説明がつく。したがって、権利保持の可否の基準は、自ら権利を主張できるか否かではなく、代理人によって、権利が主張され得るか否か、という点にこそ求められなければならない

 このようなファインバーグの主張に対する批判としては、この考えに従うと、権利保有者を制限することができず、代理可能であれば、岩や信号機など無生物も権利を持つことになってしまう、というものが想定される。

 しかし、この批判に対しては再度ファインバーグの論に従い、次のように反論することができる。まず、代理人が権利を主張するというとき、それが実質的に意味するのは、権利保有者に対する、他者による義務の履行である。ところで、義務の対象として意味を持つのは、利益を持つ存在だけ、他者の行為の有無から恩恵ないし害を受ける存在だけであろう。岩や信号機はこのような存在であるとは言えず、したがって、義務の受け手であるとは言えない。以上から、上述の批判が退けられる。

 一方、有感動物は、利益を持つ存在であり、そうである以上、代理人による権利の主張が可能であるため、権利を保持していると言えるのである。

反論2 利益と有感性はリンクしていない

 ふたつ目の反論は2に関わるもので、利益と有感性のリンクを否定するものである。このような主張として、著者は幾人かの環境倫理学者の主張取り上げる。彼らによると、利益は生物学的な意味での開花flourishやよさgoodsに関わり、意識経験を必ずしも必要としない。この点を踏まえるならば、全ての有機体が利益を持つということになる。

 これに対し著者は、利益は福利well-beingに関わるとし、この反論に応じる。福利とは当事者にとって生がどのようなものであるかという点と関わるのであり、生を経験するためには一定の意識レベルの経験が必要である。ゆえに、意識経験を欠くものに利益を認めるのは不適切である、とする。

反論3 権利を「持つこと」と「持つことができること」は同じではない

 三つ目の反論は、権利を持ち得ることと実際に持っていることは同じではない、という主張に基づく。この主張はラズの次のような権利論から導き出される。ラズによると、権利はそれ自体で自明の真理ではなく、道徳性に基底があるわけでもない。権利は利益についてのより基本的な道徳的査定により正当化されなければならない。つまり、他の側の義務を基礎づけるに十分な利益であるかチェックされることが求められるのである。

 この見解に従った場合、動物は利益を持つ(ゆえに権利を持つ可能性を持っている)が、権利を確立するに十分な利益はもっていない、という反論がなされるかもしれない。これに対し著者は、有感動物は何らかの義務を基礎づけるにたる基本的な利益を持っていると主張する。例えば、他者が自分の楽しみのために動物に苦痛を与える場合を考えてみると、これがあらゆる有感動物の利益に悖ることは明らかであり、こういった苦痛を受けない点において動物は利益を持っている。このような動物の利益は、自分の楽しみという目的から動物に苦痛を与えてはならないという義務を私たちに課す。というのも、苦痛を受けないことにより保護される動物の利益は重要である一方、苦痛を与えることによって得られる利益は些細であり、義務を課せられることによる負担は弱いからである。それゆえ、他者の楽しみのために他者から苦痛を受けないという基本的権利を有感動物は持っていると言えるだろう。

 もっとも、自由や生命といった権利については合理的な反論があるだろう。しかし、それによって、有感動物が基本的な権利のいくつか(上述のものはそのひとつ)を有することへの同意が妨げられることはない、と著者は主張する。

まとめ(ここまでの著者の主張)

 このように著者は有感動物の権利に対する3つの反論に応答し、その妥当性を示す。以上の議論を踏まえた著者の主張を引用しておこう。

(…)人間も含めすべての有感動物は、いくつかの権利を有しており、しかも、同じ理由からそれらの権利を有しているのだとすれば、自明の主張として、それらの権利は「有感動物の権利」という共有されている枠組みschemaの部分である、と考えることも支持されよう。言いかえるならば、ひとつの種に限定的な―人権という―基本的権利のリストの正当性を問う合理的な根拠があるということである。(659)

*1:sentient rightsを何と訳すべきか、難しいところである。sentienceはG・フランシオン『動物の権利入門』(井上太一訳)では「情感」と訳されているので、これに倣い、sentient rightsは「情感sentienceに基づく権利」とでも訳すべきかもしれないが、この論文では「人権」を、「情感を持つ存在sentient creature」の権利へと再概念化すること、つまり、権利の享有主体を「人」から「情感を持つ存在」へと拡張することが意図されている。この点を鑑み、「人権=人間が享有主体の権利」と対応させるため、「情感を持つ存在が享有主体の権利」という意味で「有感動物の権利」ととりあえず訳すことにした。なお、情感を持つ存在であれば、動物でなくとも権利の享有主体と見なされるのはもちろんだが、現状においては動物以外の存在が情感を具えているとは考えられない点を鑑み、「有感動物」の権利とした。いずれにせよ、この訳語はとりあえずのものである。