動物の権利を真面目に考える

動物の権利論関係の文献(日本語・英語・仏語)の読書メモ、紹介。

「権利」は有効な手段か? Olivier LE BOT, "Des droits fondametaux pour les animaux: une idée saugranue?"

 以下は、Olivier LE BOT, "Des droits fondametaux pour les animaux: une idée saugranue?(「動物の基本的権利」は突飛な考えか?)" (Revue Semestrielle de Droit Animalier, 1/2010)*1の概要。

 この論文は動物の権利論に批判的である。とはいえその批判は、動物に道徳的地位を認めないという考えからなされるのではない。むしろ、著者は動物の権利論者同様、動物の道徳的地位を肯定する。ただ、動物に対する道徳的な配慮を実現するにあたり、方法としての「動物の権利」には理論的にも実践的にも問題があるため、別の方法を用いて実現させるべき、というスタンスから議論を展開している。このように、動物の権利論が目指すものについては肯定的でありながら、その方法論を批判する議論はなかなか珍しい(と個人的には思う)ので、メモを残しておく。

 動物の権利論の根幹は、現在、人間だけが排他的に享受している基本的人権(基本権)を、動物にまで拡張することにある。基本権が確立されるに至る展開と、動物保護をめぐる展開は、当初は、別個に展開されてきたものだが、それらは近年合流し、動物に基本権を法的に認めるべきだとする主張を形成するに至った。
 基本権は、国家の専横を制限するために、歴史的に獲得されてきたものである。とりわけ、第二次大戦における数々の残虐行為を受け、国家による侵害に抵抗するための最低限の保証として、基本権は法秩序に確立された、という経緯がある。

 一方で、動物保護に対する法的保障を制度化する、ないし強化する、動物利用の条件を制限するといった、法分野での動向がここ数十年にわたり見られる。それらはここ最近の動物保護に対する関心を反映しているが、こういった動きは基本権の発展とは当初はまったく関係がなかった。

 しかし、20世紀末から今世紀にかけて、基本権の享有主体の範囲を人外動物にまで拡大すべきだと論じられるようになった。そうした主張は、全ての基本権を人外動物も有している、と主張しているわけではない。主張されるのは、一般に、生命権、苦痛を被らない権利(拷問を受けない権利、さらには、実験に供されない権利)、安全への権利、自由への権利(自由を剥奪されない権利、とりわけ檻に閉じ込められない権利)、平等への権利などであり、G・フランシオンのように「物」として扱われない権利を主張する者もいる。

 動物に基本権を認めるという考えは、一枚岩の主張ではなく、例えば、以下に示すような2つのタイプの主張が認められる。

①人類と大型類人猿の類似性に基づく主張
②有感であることに基づく主張

 ②はG・フランシオンらのあらゆる動物の搾取の廃絶を訴える主張が依拠するものであり、すべての有感動物に所有物として扱われない権利(もっぱら人間の目的のための手段として用いられることのない権利)としての基本権を認めるものである。
 一方、①の例として著者が挙げるのは、P・シンガーやP・カヴァリエリらによる、大型類人猿プロジェクトである。このプロジェクトは、人類と大型類人猿の遺伝学上の近さや、能力上の近さ(例えば言語能力、問題解決能力、信に基づく適切な選択、推論と一般化に基づく処理等の能力、ミラーテストから確認される自己意識)を根拠に、大型類人猿に人権に等しい権利を認めるべきだとする。もちろん、類人猿が有するこれらの能力は平均的な人間のそれに勝るものではない。一方で、人間の中には、類人猿よりも、上述の能力において劣る者もいる。しかし、だからといって、彼らの基本的人権が否定されているわけではない。そうであるならば、類人猿にも基本権を認めるべきである、というのが彼らの主張である。

 これに対して著者は、上記のような主張における「類似性」の恣意性を指摘し、幾つかの観点から批判する。例えば、類人猿とそれ以外の動物との間に明確な線がひけるのか、という問題がある。著者はこの点に関しては懐疑的であり、前者にのみ権利を認めることに正当性はないとする。あるいは、言語・理性・意識といった能力に依拠するのであれば、類人猿以上の高い言語能力を持つ動物、たとえばイルカに権利を認めないのは不当であろう。

 こういった批判に加え、著者は基本権の享有主体であることの基準として知性(認知能力)を持ち出すことの根本的な問題を指摘する。大型類人猿に権利を認めるべきという主張は、大型類人猿を道徳的配慮を受けるべき存在として見なしている。そして、上述のような認知能力の有無が、このような道徳的地位の条件とされている。著者はここに3つの問題点を認める。

  1. 道徳的地位は、主体の知性ではなく、その内在的価値に基づくと考えられるべきである。故に、例えば2者の知性を比較した場合に、劣っているほうは、そのことを理由に道徳的地位にないと見なされることはないし、あるいは平均的な知性の主体よりも知性が劣る主体であっても、そのことを理由に道徳的地位を失うことはない。
  2. 言語、理性、自己意識といった、特定の種の特徴が問題になるとき、個々の個体がそれぞれにおいて具体的に示す特徴が問題なっているのではない。問題になっているのは、考察対象の種が通常示す特徴であり、この意味で抽象的な特徴である(一般的な特徴と言ってもよいかもしれない)。

 1と2踏まえるならば、大型類人猿よりも劣る認知能力を持つ人間が基本権を持つ一方で前者には基本権が認められていないとしても、(前者が後者よりも認知能力において優れていることから、)これを適切でないとし、前者に基本権を拡大する主張はその論拠を失ってしまう。

 さらに3つ目の問題点として、認知能力と道徳的地位を結びつけることは、ある特定の人間にとってだけでなく、類人猿の保護にとっても問題含みである点が挙げられる。この点について著者は明示的に述べていないが、おそらくは、認知能力を道徳的地位の基準としてしまうと、人間であれ、人外動物であれ、基準に満たない個体には道徳的地位が認められないことになってしまうからだろう。それゆえ、法による動物への配慮を実現するのであれば、人類との近さではなく、フランシオンがいうように、有感性を基準とし、すべての有感動物が配慮の対象とされるべきである、と著者は述べる。

 このように著者はフランシオンの主張に賛同を示しつつも、フランシオンのそれを含む、動物の権利論にはテクニカルな面で障害があると指摘する。

 その指摘のひとつは、権利の本性に由来するものである。著者は、権利の利益説から動物の権利論を展開するフランシオンらとは異なり、権利の承認は意志を説明する能力に条件づけられていると考える。
 ただ、著者のような考えに対しては、意志を表明する能力を持たない人、例えば幼児や昏睡状態の人であっても権利を保持している事実を権利の意志説は説明できない、という批判が想定される。これに対し、著者は次のように応じる。すなわち、著者によると、権利はある種の抽象に依拠し、身体器官によって、または制度上の手段organeによって、意志を表明する能力を持つ「実体」「科famille」への帰属が重要となる。言いかえると、重要なことは、このカテゴリーへの帰属であり、個々のメンバーに説明能力が具体的にあるかないか、ということではない。それゆえ、あるメンバーが何らかの状況において、あるいは構造上の問題から、当該能力を持たないとしても、それによって権利、ないし権利を有する可能性を奪われることはない。例えば昏睡状態の人が、それによって自らの財産を奪われることはないし、ある企業が、制度上の問題から活動を凍結され、意志を表明できない状態にあったとしても、権利をはく奪されているわけではない。*2
 
 では、動物は自分自身で意志を表明できるだろうか。動物は意志を持ち、それを行動や態度などによって表明することができるのは疑いない、と著者はいう。しかし、現在の科学的な知識によって動物の意志を正確に理解するのは難しく、そのため、動物の基本権を検討するに十分なほどの確実性をもって動物の意志を理解することができていないとし、基本権の動物への拡張を問題視する。

 ふたつ目の問題点は、目的(動物の保護)と手段(動物に基本権を認める)がアンバランスであるという点である。現状において動物に基本権を認めるという主張は、あまりに急進的であり、周縁的なものにとどまっている。それにはそれなりの理由がある。まず、動物に基本権を認めるのに必要な文化的な基盤が欠けていることである。動物の権利論はようやく最近になって主張され始めたものであり、これを支える基盤はいまだ脆弱である。二つ目の理由は、基本権の射程はあくまでも人格としての人間の保護であり、人格が基本権の源泉である、ということである。この第二の理由は、基本権が獲得されてきた歴史的経緯にもかかわる。基本権は、ナチズムや全体主義の経験、つまり国家による専横、個人に対する恣意的な暴力の歴史の中から生まれ、継承されてきた。このような歴史的経緯があるゆえに、人間と基本権の間にはある種の感情的、情緒的なつながりが認められる。つまり、基本権とは「我々人間の権利」である、という感情である。そのため、動物にも基本権を承認することは、これらの権利の価値を貶めるように思われてしまうかもしれない、と著者は指摘する。

 加えて、著者は基本権の付与は本質上、行動の許可を与えることである点に着目する。基本権によって保障されるのは動物の行動の自由であるが、そもそも問題にすべきは人間の動物に対する処置である。動物が被っている現状を改善するという目的を実現したいのであれば、基本権に訴える必要はなく、動物の福利を損なう行為や殺害の法的な禁止で足るのではないか、と著者は主張する。

 著者によると、上記のような法的禁止処置には3つの利点がある、という。

  1. 実際の効果は、基本権の付与と同じであり、かつ、後者の場合に生じるえる信条間の衝突を避けることができる。例えば、動物に生命権を認めることと、動物の殺害を禁止することは実質上同じような結果をもたらす。
  2. 運用上の容易さ:権利の場合は、動物を代理するためのシステムをつくらなければならないが、禁止の場合、即座の運用が可能である。つまり、刑法が禁じ、法を侵した者は罰せられる、というわけである。
  3. 他の動物による捕食に介入せずにすむ:動物への加害の禁止ぜられるのは人間だけであるから、生命への権利を尊重するために捕食者から獲物となる動物を保護するべきか否かという厄介な問題を回避することができる。

 以上を踏まえ、著者は、動物の法的な身分を向上させるのであれば、基本権の適用という手段ととるのではなく、憲法の中に動物の地位を保護するための規範を盛り込み、それに基づき、動物に対する加害を法的に禁止すればよいとする。この方法であれば、基本権に訴えた際の上述の抵抗を回避することができ、利点も多いと結論する。

 憲法の条文を根拠とした動物保護という著者の上述のアイデアはこの論文では最後に少し触れられるのみであり、詳細は述べられていない。この点については、著者の別の著書Droit constitutionnel de l'animal*3に詳しいのだろうが、未読である。ただ、この著書で扱われている内容を短く紹介した著者自身による短い文章を見つけたので、その文章のあらましを別記事で紹介したい。

*1:後に以下に収録。

*2:このような著者の主張は、権利論としてどの程度の支持が得られているものなのか、現在の自分の知識では判断がつかない。著者の主張は、権利の意志説に分類されうるのかもしれないが、一般に権利の意志説を採るのは、個々の権利主体の自律や自由といった契機を重視する論者が多いように思う。しかし、著者は、意志の説明能力を権利主体であるための条件としつつも、個々の主体が実際にそのような能力を持っているか否かは問題とせず、(一般的に意志の説明能力を持つ)人間という種への帰属を以って権利主体としての資格が満たされるとしている。つまり、人間という種の固有性に基づく権利論、ということになるだろう。

*3: