動物の権利を真面目に考える

動物の権利論関係の文献(日本語・英語・仏語)の読書メモ、紹介。

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の紹介②

前の記事で紹介した著者の主張に対しては、人権のうちに有感動物の権利には還元できない本質的特徴を示し、これを根拠に両者を区別するという形での批判が想定される。そこで著者はそのような反論として、3つの主張を取り上げ、それらがいずれも反論たりえないこと、すなわち、人権には、有感動物の権利との区別を正当化するような特徴がないことを示し、反論を退ける

人格性の保護としての人権という考えに基づく区別

 まず、人権とは人格であるものの人格性personhoodを保護するものだという考えに基づき、有感動物の権利と人権を明確に区別すべきだ、という主張が検討される。 人格性の内実については諸説あるが、人格性の最も重要な性質は行為者性agencyであると著者はいう。ここで行為者性とは、端的に言えば、理性的に、また反省的に目的を追求する能力の特質のことである。行為者性は人間に特有の質であり、ゆえに、人権が行為者性としての人格性を保護するものであるのならば、人権は有感動物の権利とは区別されなけばならないことになるだろう。
 
 このような主張に対し著者は問題点を2つ指摘する。ひとつ目はいわゆる「限界事例」からの指摘であり、ふたつ目は、人権の福祉論welfarist theoriesに基づく指摘である。

 前者は、人格性の保護を人権の本質とした場合、人格性を備えているとは見なし得ない幼児や重度の知的障がい者などは、人権の享有主体とは見なされなくなってしまう、というものである。この問題に対し、人格性に基づく権利論の側がとりうる戦略として3つのものを著者は挙げる。

戦略①:こういった人々は人権を持たないが、私たちは彼らに対する強い義務を持つ。
著者による批判:この主張は、人権に関する通常の(現実における)理解と実践と乖離しているという問題を抱えている。

戦略②:人格となる潜在性ないし過去において人格であったという事実をもとに、幼児や障碍者に人権を認める。
著者による批判:全ての人間が潜在性をもっているわけではないし、過去において人格であったわけでもない。一生の間、人格になる見込みのない者たちは人権を持っていないことになってしまう。

戦略③:全ての人間が人権をもっていると認め、非人格である幼児や重度知的障がい者も人格であるそ他の人間と同じより大きなグループ、人格性を構成する諸能力を備えたヒトという種のメンバーであると考える。
著者による批判:種という集団への帰属がなぜ個々の存在の権利保持に関係するのか明確でない。もしこの問題を棚上げしたとして、そもそも権利保持の基準となるより大きなグループが種である理由に関する説明が欠けている。

 次に、人権を人格性の保護とする主張の第二の問題点に関する著者の指摘をまとめよう。第二の問題点は、人格性を構成する諸能力ではなく、権利の享有主体が苦しまないことによってこそ、人権は正当化されると考えた方が妥当である点に認められる。例えば、私が拷問を受けない権利を有しているとして、それは、私が目的を策定し、見直し、追及するのを拷問が妨げるから、というよりも、もっと単純に、拷問は私に苦しみを与えるからだ、と考えたほうが妥当である、と著者はいう。

 この考えを著者は、福祉論welfarist theoriesの観点から敷衍する。福祉論的人権論によると、人権は人間の基本的な権利を守るものである。人権は最低限のまともな生活minimally decent lifeを可能とするすべての財goodsを保護する。このような人権概念を採用すると、minimally decent lifeの保護の対象から人間以外の動物を排除することは正当化しえなくなる。というのも、全ての有感動物が基本的な利益を持ち、また最低限のまともな生活を送ることができるからである。

政治的機能に基づく区別

 人権は有感動物の権利には還元しえないとする主張の第二として、人権の政治的機能に依拠する主張を著者は取り上げる。この主張は、人間存在にどのような価値(例えば人格)が内在しているか、ではなく、現実世界において人権がどのような政治的機能を果たしているのかという点に力点を置く。この考えに従うならば、諸国家の主権に制限を課す機能こそが、人権の第一の機能である。別の言い方をするならば、人権は、ある国家の事案に対する部外者の(武力の有無を問わず)介入が認められうる場合を特定する。このように人権を理解した場合、人権と動物の権利の違いは明白である。動物の権利はこの種の政治的機能を持たず、動物の権利が侵害されたとして、ある国の事案に対して国外から干渉することにはならないからである。

 だが、この種の議論が人権の「国内」における機能を無視している点を著者は問題視する。多くの国において、人権は国内における個人の基本的利益を守るために機能している以上、人権の機能を国際関係上のものに限定するのはおかしい。このような指摘に対しては、上述の人権の政治的機能面での特徴は他の権利と人権との違いを示すものであり、有感動物の権利と区別される点においては変わらない、という反論があり得る。これに対して著者は、有感動物の権利のために国際的な干渉が行われることもあることを指摘し、国際的干渉のトリガーとしての機能の有無という点から、人権と有感動物の権利を区別することはできない、と再反論する。

内容の違いに基づく区別

 続いて取り上げられる区別は、人権と人外動物の権利は内容において異なるという点に依拠するものである。とはいえ、人権にカテゴライズされる諸権利自体、内容は多岐にわたり、そこには特定の存在のみが享有主体となる権利(子供の権利、リプロダクツライツなどの女性の権利など)がある。つまり、内容において異なるのは各種個別の人権においても同様である。この点を前提としたとき、人権と有感存在の権利の関係はどのように考えられるだろうか。著者は2つの方向性を示す。

①多様な基本権が種を越え享有されていると考えたうえで、人権を有感動物の権利として再概念化する

 人権の普遍性(全ての人間が同じ内容の人権を共有している)という考えを捨て、人間は各自が互いに異なる基本権fundamental rightsを持つと考えるならば、同様に人間は人間以外の動物とは異なる権利を持ち、また、人間以外の動物もそれぞれが異なる権利を持つ、ということになる。この方向で考えるならば、各主体が保持する権利の内容の違いは、人権を有感動物の権利へと再概念化する妨げとはならない。


②個々の人権を基本的な権利からの派生として問えらえた上で、有感動物の権利とは区別する

 内容において多様な個々の人権は、全ての人間が享有する「基本的な権利basic rights」から派生したものである。基本的な権利とは身体の安全physical security、最低限の生活subsistence、自由であり、これら三つの基本的権利からその他の派生的権利が生じる。各人が享有する権利のリストが同一ではなくとも、これら3つの権利は共有されている。そのうちの自由権は人間にとって意味のあるものだが、動物にとってはそうではない。例えば奴隷の所有は奴隷の自由権を侵しているとはいえても、猫を飼うことによってその猫の自由権が侵害されているとは言えない。よって、人権と動物の権利は区別されるべきであり、前者を包括する概念としての有感動物の権利は不要である。

 ②に対して著者は次のように反論する。動物が自由権を享有するに足るだけの能力、ないし、人格性を欠いていることを認めたとしても、ある種の人間についても同様のことが言えるのではないだろうか。ゆえに、自由権が全ての人間にとって基本的な権利であるのか疑問であるし、自由権をもって人権とその他の有感存在の権利の間に線を引くことはできない。

 このように②を退けたうえで、人権の多様性を説明する方法として、基本権からの派生ではなく、利益の保護という権利の普遍的な基盤universal foundationsからの派生に訴える方法に著者は着目する。例えば、婚姻の権利や、妊婦の健康への権利は、当事者の基本的な利益を保護する。著者の言葉を引用しておこう。

これら権利の各々が保護する利益により、権利を保持する者が最低限のまともな生活a minimally decent lifeを送ることが可能になるがゆえに、これらの権利のひとつひとつは正当化され存在するのであるという考えから、これらの権利の普遍性は生じる。(667)


 この考えに従うならば、人権と有感動物の権利を取り立てて区別する必要はなくなる。なぜなら、後者も有感動物のdecent lifeに必須の基本的な利益を保護するからである。

 もちろん、人間にとってのdecent lifeと、人以外の各種動物、例えば蛙にとってのそれは異なる。しかし、人間と蛙という種の違いが、それぞれの権利を本質的に区別することの根拠となるわけではない。なぜなら、人間という種内部においても、何が各人の最低限のdecent lifeを構成するかは、当人が新生児であるのか、成人であるのかといったことに左右され、同じではないからである。現状において、人権が保護するminimally decent lifeの内実がそれ自体多様でありながらも、「人権」という包括的なカテゴリーの成立を人権論者たちは認めている。その論理を一貫させるならば、必然的に権利概念は種を越え、あらゆる有感動物の多様なminimally decent lifeを包括するものへと拡張されなければならない、というわけである。

言いかえると、人間にとっての最低限のまともな生活を構成するものと、その他すべての有感動物にとってのそれを構成する者との間に、はっきりと明確な境界があるわけではない。そのため、人権の普遍性が、最低限のまともな生活の保護という普遍的な基礎から派生するのであれば、人権を有感動物の権利として再概念化することを支持せざるえなくなるのである。(668)

(紹介③に続く。)